理趣 - Riche

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ドミナ 理趣(女王様) プロフィールコメント About me About Me

私は探検の好きな子供でした。仲間を引き連れて学校の外へ。自分の足で確かめた領域を地図に描き足していくように、開拓するかのように踏みしめて歩き回りました。

少し大きくなり、外の世界だけでなく精神世界も探求したくなり、書物も絵画も、音楽だって何だって貪りました。知ることは私に未開の大地を征服するような満足感を齎します。そんな支配欲にも似た貪欲さとは裏腹に、成長するにつれ求められる型に合わせつつ、利用しつつ、ときにはこっそり外れたりしながら、沸々と燃える欲望を解き放つ機会を伺ってきました。

世界中を旅しようが、どれだけの本を読もうが、満たされないもの。それは他者への欲望です。しかし誰かを求めて捜し歩いても、受動的に愛される存在であることを求められることも多かった。

本当の私は奥地の密林に分け入る如く人の心を深く深く探検して、私の足跡を刻みたい。言葉を選ばずに言えば、傷跡を残したい。なんならその上に自分の好きな旗でも立てて去りたい。

そんな欲望を満たそうと歩き回っているうちに、ここに辿り着きました。貴方という未開の地を、時には優雅に、時には荒々しく、ハイヒールで踏みならしたい。

ドミナ 理趣(女王様) プロフィールコメント For you For You

貴方にとって自己とは、何ですか。

近代化を準備したのは、理性と自己決定権を持つ独立した自己の概念でした。その時代精神の結晶とも言えるフランス革命期に、あのマルキ・ド・サドが登場したのはある意味必然でしょう。

自由の名のもとに、常に理性を用いて正しい決定を下すよう強いられるのは苦痛ですし、そのようなことが可能だと思うのは欺瞞です。しかし貴方もまたそうした抑圧の元に生きているはず。だからこそ、この扉を開いたのではありませんか?

独立した自己など幻想であり、市民社会を成立させるための建前です。自己は外界との相互作用によって絶えず立ち現れるもの。ありのままであってありのままでない新たな自己を創造しましょう。

なんてロゴスで考えることすらなしに、没頭して。構築された鎧から脱して。

自由という鎖から貴方を解放したい。

ドミナ 理趣(女王様) ラ・シオラからのコメント From LA SIORA From LA SIORA

大学を卒業して、僅かな時間が過ぎただけの若きドミナ。知性は瞳の輝きに、意志の強さは唇に、口角を結ぶ。学生時代は優等生であったと瞬時にわかった。 書物や映画を通してみるBDSMは、想像力豊かであろう彼女の奥を、狂おしく掻き立たせ、今ラ・シオラにいる。原石はゴージャスに磨かれるであろう。もうひとつの顔はどんなものになるのか、未知の面白さに私自身もニヤリ。

MON TUE WED THU FRI SAT SUN
3 - L --- 3 - L 3 - L 3 - L
ドミナ 理趣(女王様)のスキル
  • 縛り: 後ろ手、M字、全身の基本的な型は可能。
  • 吊り: 吊り具での吊り、M字、逆さ。緊縛での吊りはNGです。
  • 一本鞭:
ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム1

セッションにおいて最も力を入れていることや重要視していること。 セッションにおいて最も力を入れていることや重要視していること。

「セッション」と聞いて皆さんが真っ先に思い浮かべるものは何ですか。矢張りSMのセッションでしょうか。

様々な意味のある言葉ですが、私がSMに足を踏み入れる前から親しんできたのは所謂「ジャム」セッションです。音楽において、オーケストラ等の合奏は全ての音が書かれた楽譜に基づいて行われます。

一方ジャムセッションは、ミュージシャンが集まり即興で演奏します。ジャズといえばインプロビゼーション、即ちアドリブが中心的要素ですが、このスタイルはジャムセッションから生み出されたものであると言われています。

ジャムセッションの楽しみは言うまでもなくその自由さにあります。即興のアレンジやアドリブ、そしてそうした予定外の「遊び」に他のプレイヤーが反応し、相互作用で創造していくのが一番の醍醐味です。

曲の始まりや終わりでさえも自由。そんな自由を無秩序から隔てるのはプレイヤーのコミュニケーション。声、仕草、呼吸、テンポを速めたりゆっくりにしてみたりといった合図によって展開します。

一瞬の空気を読み、新たな空気を創造するのです。これこそまさに、「SMの」セッションにおいても私が最も重要視していること。音楽と同じく、私と貴方を満たしている「場」もまた、一瞬で過去になる一回性のアートです。

勿論、即興であっても互いに共有する材料が無くては「セッション」は成り立ちません。音楽でいうコードつまり規範、そしてセンス。物理的には楽器。私の縄、鞭、身体そのもの。そしてそれらを使いこなす確たる技量。

これら持てる者だからこそ逆にシンプルで、贅沢な遊び。そんな余裕を持って貴方を翻弄したい。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム2

SMに関してあなたが感銘した本、音楽、映画、アートなどはありますか? SMに関してあなたが感銘した本、音楽、映画、アートなどはありますか?

「古典」について書いても良かったのです。実際、その選択肢を残すつもりで、このリレーコラムを後半に残しておいたと言っても過言ではない。

サド公爵にしても、マゾッホにしても、SMに一家言あるカルチャーおじさんを唸らせるくらいのものは書けると思います。あるいはE.フロムの「自由からの逃走」でも。こちらは私の実感ともかなり近い一冊。しかしサドにしてもマゾッホにしても、これを書くためにもう一度読み返すのは気が乗らない。それは古い邦訳の取っ付きにくさや難解さによるものではなく、現在を生きる私の信条からして、いくら古典とはいえど看過しづらいものが多すぎるから。

サド侯爵はストレートに、そしてマゾッホは捻くれているにせよ、通奏低音として流れるのは本質的にはミソジニーです。しかも文学として昇華されたのは氷山の一角であり、彼らの小説が産み出された時代にはそれが実際に主要な社会構造として生きており、エロティックでも革命的でもない仕方で弱者の生命を奪ってきたと考えると、ある意味ではもう打ち棄ててもいい古典ではないかとすら思う。

似たようなことを思うからこそ、日本のサドマゾヒストの嚆矢たる谷崎も川端も安部公房も横目で通り過ぎている。サドを読み込んでいない女王様なんてと、おじさんマゾに叱られるかもしれませんが。サブカル関連人のマンスプレイニングって独特の厭らしさがあるよね。でもだって私は芸術の前では「正しさ」なんて無意味だとか思想でアートを選ぶなんて勿体無いとか言えるほどナイーヴで無自覚な子どもじゃないから。 

 

性規範からの逸脱が自己の解放であり、革命だという思想(現代というよりは近代の思想ですが)、BDSMもその流れに位置している事実はある。ちなみにそうした「革命」がまともに機能した例として、日本では大江健三郎が最後だと私は思っている。

サドやマゾッホもそういった意味での価値はあるでしょう。でもね。私自身の美学として、革命とは、弱者を踏みにじるものではない、というのがあるのです。性規範の逸脱は、性的弱者の人権を踏み台にしたものであってはならない。それは私の倫理観である以上に、美学である。

私はそうした、自分自身の美学に照らした上での逸脱者すなわち革命者としての人物に、何人かの実在の人物を重ねている。それは必ずしもBDSMに関連する人物とは限らない。

元ワンダイレクション(だったっけ)のハリー・スタイルズなんて、軽やかにジェンダーを超えていく革命者だと思います。彼がリゾとセッション(!!)したJuiceはそういった意味で革命的な名演だし、音楽的にもファンクを愛する者としては何度でも安心して帰ってきては聴き直してしまう魅力に溢れている。

SMに関する作品という趣旨からは多少離れたところに着地してしまいましたが、 Ain’t my fault that I’m out here gettin’ loose Gotta blame it on the Goose なんて。ドミナらしいんじゃない?というわけで、今日はこのへんで閉じます。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム3

こんなところでSMしたい!あなたの理想のダンジョンは? こんなところでSMしたい!あなたの理想のダンジョンは?

今、ぱっと思いついたのは、姫路城。あの矢鱈と白い姿が妙に目に焼き付いている。

ダンジョンって元々城の最重要部を指す言葉だったらしい。やがて城の地下の監獄、囚人の地下牢という意味になったのだそう。ゲームをする方にとっては迷宮のような意味で、もっと馴染み深い言葉なのでしょう。

姫路城にヨーロッパの地下牢のような施設があるとは思えませんけど、私はどっちかというとゲームにおけるダンジョンのような使い方で、日本の城を動き回って楽しみながらセッションしたい。

例えば忍者屋敷のようなイメージでギミックを駆使して。ところで女忍者って昭和エロの常套ファンタジーですよね、私はロールプレイする気は無いですが。SMするなら隠れて脅かしたり、梁に縛りつけたり、梯子のような階段をラダーにしたり。天守から突き落とされるかのようなプレイとかね。

城下街をはるか彼方眼下に臨めば、時空を超えた支配者の気分に浸れることでしょう。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム4

あなたにとってハードプレイとはどういうプレイ? あなたにとってハードプレイとはどういうプレイ?

私にとってのハードプレイとは、遊びです。安全なところで余暇に楽しむ遊びではなく、存在を賭けた遊び。肉体の存在を脅かすことは存在の危機ですが、アイデンティティの核に触れることもまた、命に関わる危機です。

前者についていえば、吊りや呼吸管理、メディカルといった身体的に危険なプレイ。後者には身体への侵襲のみならず、コミュニケーションを含めた全てのプレイが当てはまりうる。より直接的な方法でいえば、洗脳や催眠のようなプレイ。

それは一人ひとりが持つ習慣、知見、人生の歩み方、信条、固定観念...おのおのが生きるために備えている精神的安全装置を解除するプレイです。また、そうそうできることではありませんが、野外プレイのような他人に見られることが社会的な死を意味するプレイも、人間にとっては存在を危機に晒すものだといえる。

ともかく、肉体の命であれ、精神的安寧であれ、社会的生命であれ、自身が持つ決定的資源を瀬戸際に晒すことがハードプレイだと、私は考えています。

とはいえ存在を賭けるというのは何も大仰な話に限らず、例えギャンブルをしない人にだって、人生における賭けの瞬間はいくつもある。進路を決めるとき、転職や起業、そして人付き合いの相手を選ぶのだって、自己という資源を何にベットするかの瀬戸際にあります。

特に恋愛。恋愛は個々の自分という存在を根底から揺らがし、ときに生命さえも失わせたりあるいは産み出したりする、創造と危機が諸刃の剣になった遊戯です。

私たちの肉体と精神はその瞬間、言うなればただの素材になる。 一瞬の閃きに命を賭けるレーシングドライバーのように、あるいはある工芸の到達点に一生を賭ける職人のように、命を材料として瞬間に差し出される。

それがハードプレイだと私は思いますし、そうしたいと思われる女王様でありたいと切に願います。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム5

マゾに励ましの言葉/コロナ終息後に何をしたい? マゾに励ましの言葉/コロナ終息後に何をしたい?

コロナ禍の始まる直前、私は期限の切れたパスポートを更新するために市役所を訪れました。

当時学問にも私生活にも感じていた手詰まりは、バックパックの一人旅でもすれば打破できる気がしていたからです。しかしその後すぐに海外どころか県外への移動さえも諦めなければならない状況に。

そしてコロナ禍が一定の終息を見せたのち、私は長野、大阪や和歌山、神戸、島根、沖縄など色々なところを訪れました。

コロナ禍で学んだことは、やりたいことを思いついても思わぬ要因で実行できなくなる可能性は常にあること。

どうにも腰が重かったり、日々に忙殺されて手一杯で動けなくなることのある私ですが、思い立ったら直ぐやれる人間になりたいものです。。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム6

ドミナそれぞれのテーマ曲」は何?  「ドミナそれぞれのテーマ曲」は何?

私のテーマ曲は、モーニング娘。'23 『Wake-up Call~目覚めるとき~』 です。 

https://youtu.be/FpoYeL4RSm0?si=h8TqvaCwIu_ryWAj

モーニングの新曲。今まさに有線でガンガン流れてるとこなので、Youtubeで聴いたらこれか!!ってなる方、いると思います。

テーマ曲、色々考えました。エロいジャズにしようかな、オジサマ会員の世代に刺さる名曲がいいかな、インテリ心をくすぐる洋楽やクラシックを...とか。実はそういうあざとい曲のストックは色々持ってるつもりなんです。

有名どころもオッとなる曲も抑えてる。そのへん博識なの。 でもね。あんまりそういうズルいこと考えすぎるのよくない癖だと思って。ある程度のブランディングは勿論必要なのだろうけどね。 今なんだかんだ一番聴いてるのがこの曲。ライブで泣いたのもこの曲。ドミナとしてスタートを切る準備をしているときに、そばにいてくれました。それがアイドル曲なんて、意外でしょ?

こういうオトナなコンテンツでアイドルに言及していいのか一瞬迷ったけれど、なんか懐の広そうな感じの曲なので、書いちゃいました。そしてプチ布教。 wake up callですよ。寝坊しがちな私に必要なもの。心まで、起きろ〜!!!って言ってくれてるかのような刺激的な楽曲構成とシンプルでストレートな歌詞。目覚めるとき!人生を楽しむとき!そして「夜の底で燻った誰かの心 導火線に着火してあげる」ですよ。

私自身の導火線が着火されると同時に、私が貴方の導火線に着火してあげる、って気持ちになる。 でもね、きっとまたテーマ曲は変わる気がするの。それは私自身が「目覚め」て、新しい何かを掴むはずだから。それにこれはスタートの曲。だからテーマ曲、更新したらまた書き直させて頂くかもね。これからも色々書いていくから、見逃さないでね!


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム7

いつの時代、どこへ行って、どんなSMをしたいですか? いつの時代、どこへ行って、どんなSMをしたいですか?

昭和初期、日本家屋の茶室でSMをしてみたいです。神聖な空間でなんてことを!と怒られるかもしれません。ですが茶室はシンプルな空間をどのように使うかという点で、自由でクリエイティブな魅力があると思います。

私が主人役になってマゾを招き入れ、正座の状態で縛って放置したのち釜で沸かしたお湯で責めたてたり...逆にマゾが主人役で恥ずかしい格好をさせてお点前を頂くのもいいですね。古い日本家屋の年季の入った柱や梁も縛りに贅沢に使えそうです。

時代を昭和初期に設定したのは、この時代に独特のエロスと自由さを感じるからです。昭和初期くらいまでの小説を読むと、茶道や華道、能や歌舞伎といった伝統文化や芸能に神聖なものを認めるところは現代人に共通しつつも、官能の材料にしてしまうような自由さがあるような気がします。それはこうした文化がまだ日常に溶け込んでいたことにも起因するのでしょう。

芥川だったか...お花の先生である美しい人妻との官能的な場面が描かれた小説があったと記憶しています(どなたか知っていたら教えて下さい)。ここに日本の無形文化をエロにしてしまう懐の広さと芳醇さがある気がするのです。そして、昭和の文豪や芸術家にはSMの香りを仄かに、あるいは色濃く漂わすものが多くいます。

谷崎潤一郎、川端康成、責め絵の伊藤晴雨...彼らの濃厚な世界観を構成する時代の空気感は取り入れたい。しかし、作品において責め手は男性であることが多い。だからこそこうしたSM的なエロスを取り巻く当時の定石、つまり男性は責める性であるということを逆手に取り、女性として上位に立って責めることの意外性を纏った面白さが表現できるように思います。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム8

もう一度やり直したい。後悔したセッションやマゾとの関係はありますか? もう一度やり直したい。後悔したセッションやマゾとの関係はありますか?

デビューから夢中で過ごしてきましたが、気づけば幾つものセッションを重ねてきました。試行錯誤の中で、後悔の残るような出来事も勿論あります。

ドミナとなって間もないとき、私のブログを読み、大層期待した様子で訪れたマゾがおりました。私の拙筆をなにやら高く評価してくれたらしい彼は、彼自身におそらく文学的素養があるのでしょう、緊張した様子で仰々しく私の文体や教養に関して彼なりの批評を述べてくれたのです。彼の口振りや畏まった様子から私は、自分が何か彼の知的好奇心や、インテリとしての共感を求める気持ちにハマっているのかしら、と悟りました。そして、そのニーズに応えてあげなくちゃ、といじらしくも気負ってしまった。

実際のところ私はラーメンが好きですし、ポピュラーカルチャーを愛しアイドルを推し、飲んではカラオケで歌い踊り、隙を見ては際どい冗談を言おうとしている。しかしそんなくだけた女よりも、彼は硬派で少しエキセントリックな私ではない誰かを期待しているように見えました。私はそんな期待にプレッシャーを感じて(彼が古い会員であることも重なり)、実際のセッションでは少々「演じすぎた」。空回りしてしまったと、今では思います。今の私であれば、相手の持つファンタジーと私が本来持つ呼吸をどうやって重ねて、どちらも壊すことないハーモニーを作ろうかと考えるでしょう。

他にも最初の頃には、こんなことがありました。何度も続けざまに訪れて、その度に熱烈な愛のメッセージを残していくマゾ。私はその好意と崇拝を浴びる側でありながら、彼はいつまでこの熱意を持ち続けてくれるのか、私はどう応えたらいいのかと逆に不安を感じてしまっていました。その苦しさから集中しきれなかったセッションがありました。好意を受ける側には、実は相応の度量が必要です。自分に自信が無ければ、逆に疑心暗鬼になることだってある。それをわかっていたつもりでありながら、非常に熱烈な崇拝を受けて困惑したのは、あまりに未熟でした。好意を受け取るということ、崇拝される存在であるということについては、肌で学んでいくしかないようです。

セッションにおいてはまだまだ、後悔すること数多し。その都度ノートやブログに書き留めては、糧にと念じています。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム9

あなたがSMプレイしたい有名人は?また、どんなことをしたい? あなたがSMプレイしたい有名人は?また、どんなことをしたい?

私は「有名人」に対し、全くといっていいほど食指が動きません。何かしら非凡な野心、才能、運といったものが、セクシーな意味で興味を惹かれるものではない。

自分がそれらを獲得するかどうかといった話ならまだしも、他人の富、名声、名誉等が性的な魅力と映ることはほぼなく、それどころか私の求めるものとは対極にあるともいえる。

それはなぜかというと、私が色っぽい意味で惹かれるのは日常に埋没する「まともさ」だからだ。所謂ニッポンのサラリーマン。制服のようにスーツを着て、黒髪に眼鏡で、それなりに働きそれなりにくたびれている。

人生への充足的な諦念。安定と成熟。そうした「ふつう」の概念を体現するような人間に、昔からなんともいえぬ後ろ暗い欲望を密かに滾らせてきた。それは私が何をどうやっても根本的に普通にもまともにも縁遠い人間であることと勿論関係している。

まともな人生を、無難な皮を、その量産品のネクタイを解いてワイシャツを脱がしたときに、現れる慄きと欲望に、たまらなく惹かれてしまうのです。


ドミナ 理趣(女王様)のリレーコラム10

「殺し屋イチ」についてドミナが語る 「殺し屋イチ」についてドミナが語る

読了しました。長かった!そして、疲れた!その割にあっという間だった!

考えてみたら正味二週間とかの話ですものね。スピード感がすごい。十回くらい論考連載ができそうな作品ですが...リレーコラムにはカジュアルに、コンパクトにまとめられたらと思います。wiki見て気づいたのだけどこの作者の「ホムンクルス」読んだことがありました。あちらはよりスピリチュアルで、今回の作品は結構物質的、グロ描写を除けば王道バトル漫画のようなストーリーラインでもあり娯楽的な作品だと思います。

さて、読んでいて急に思い出したのですが、なんだか私やたら暴力を渇望していた時期があるのですよね。鞭やビンタといったSMの形式以前の、粗雑で原始的な暴力。だからといって日毎繁華街に繰り出して喧嘩に耽っていたわけではありません。

で、暴力そのものに憧れてるときって多分、自分が暴力振るうことと振るわれることに区別のないのですよね。加虐と被虐は本質的に同じこと。女の子の場合社会的な規範がありますからあるから自分を被虐側に置いたファンタジーに流れるのは当然の流れ。ですがこの漫画で被虐願望の方に意識を流したのは、ホモソーシャルなヤクザ社会のリーダーで、身体的にも立ち場的にも結構マッチョな男。

彼が加虐願望と被虐願望のどちら側に欲望の川を流すか、分けたポイントは何なのか。おそらくここに本作の本質的な部分があるのでしょう。

この根源的な暴力への欲求は、おそらく力への欲求でもあるだろうし...大きくまとめれば「向こう側」への欲求なんだろうなと思います。日常の向こう側、意識の向こう側、一般社会の向こう側。子供の頃って、世界は征服できる位どっかで思ってたりするじゃないですか。私だけ?

まぁ成長すれば段々と世界には自分の力でどうにもできない理不尽があると自然に無意識に学んでいくわけです。私の生育歴って普通では無く、精神的な発達が遅れたのかその「気づき」が段々じゃなく一気に来たのです。

この環境を脱すれば私はなんでも出来るんだ!と意気込んで自由になってみたけれど狭い支配下から努力して抜け出して生身で社会や他人と対峙したところで、世界に対してあまりにも歯が立たない。

そんな絶望が「向こう側」を希求するのだと思う。そして、一見力への希求とは思えない被虐願望だって、本質的には力への欲望だと思うのですよ。このへん自分が納得できるようにちゃんと筋立ててまた語りますね。

長くなりましたので、今回はこの辺にしておきますね。 あと、私もSで割とよく泣くタイプだと思います。


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