つかさ - Tsukasa
About Me
己の好奇心と探究心に突き動かされるように生きている。自分の求めるものがそこにあると気付けば、脇目も振らず飛び込む。そして味わい尽くし満たされたい。
その衝動のままに足を踏み入れたBDSMの世界は、あっというまに私の心を鷲掴みにしました。でもまだまだ味わい足りないんです。もっと知りたい。脳を浸して、皮膚も肉も骨もすべて食らうぐらい真正面から向き合って、心を燃やし尽くしたい。その瞬間を渇望しているから、私はここに立ち続けているのです。満たされた瞬間の私は、よく声をあげて笑っている気がする。
まともに社会を生きる者の面形をしているだけ。
実のところ、ひたすらに酔狂なんですよ。 私という人間は。
For You
私の目の前で、君が持つ偏屈な愛を語ってくれる時間が好きだ。私の足元で生々しい欲望を吐露する姿が好きだ。人間としての尊厳を失った果ての泣きそうで、苦しそうで、幸せそうな表情が好きだ。
つまり、君が奥深くに秘め抱えたものに興味があるのです。薄い皮膚に爪を立てて、切り裂いて、出てくるものはいったい何だろうか。それを剥き出しにして触れた末に共に何をみるのだろうか。
私が興味関心を向けるのはSMという行為そのものだけではありません。痛めつけることも、苦しませることも、ただの手段でしかない。私は自らの行為を介して「意味」を君に与える。聡い君はこの言葉の真意を理解できるはずだ。エゴだと言われても構わない。そのエゴさえも私にとっては愛なのだから。
さあ。深淵に触れ、覗き、共に落ちゆく覚悟があるならどうぞ手をとって。
From LA SIORA
健康的でパワフル、ユーモアもあって知的、勘が良い女性。多忙なOLですが、スキル取得にフットワーク良く動き、心の底からドミナであることを楽しんでます。決して媚びていないのに、あなたに心地よいポジションを提供し、威張っていないのにドミナらしくある。初対面で感じたドミナの資質は間違いのないものでした。
入店してあっという間に固定ファンができ、レギュラードミナになりました。大柄ではありませんが存在感があり、笑顔が魅力的です。 (2023年4月レギュラードミナ)
MON | TUE | WED | THU | FRI | SAT | SUN |
ご希望の日時をお問い合わせ下さい。 |
- 縛り: 後手縛り可。緊縛については現在修練中です。生成縄のほか、跡が残りづらい綿ロープも所持しています。縄はもちろん、レザー拘束具やボンテージテープを使用した拘束も好みます。
- 吊り: 拘束具を使用した吊りは可。縄を用いる場合半吊りは可能ですが、全吊はスキル・安全面を考慮し現在は行なっておりません。今後チャレンジしたい領域でもありますので、スキル取得まで今しばらくお待ちください。
- 一本鞭: 長さや打撃感の違うものを3本所持しています。物理的な痛みを与えるだけではなく、コミュニケーションとして鞭を用いたプレイがとても好きです。鞭好きな方はもちろん「挑戦してみたい」という方ともぜひセッションを楽しみたいです。
セッションにおいて最も力を入れていることや重要視していること。
ひとつは「可動域を広げる」ことです。
同じことの繰り返しや、自身で限界を決めつけている以上、SMプレイの可動域は広がらない。ひとつでも少しでも負荷をかけていくことで、できることが広がり、発見や気づき、面白みが生まれると感じています。
可動域を広げることで、次は深度を増すことができる。 私は無難でお利口さんなプレイをしたいとは思いません。互いに「今日は更にもう1歩」という覚悟を持ちアクションを起こすことで、様々な可能性を孕んだ楽しいセッションを行うことができるのです。
ふたつめは「すべてを血肉にする」ということ。セッション中に得たものを経験・知識として自分のなかに取り込むということです。 私の敬愛するデザイナーの言葉に「センスは知識からはじまる」というものがあります。
センスという言葉は、生まれ持った感性や直感……のような意味で使われがちですが、先述の言葉通りセンスとは「積み重ねて磨き上げた賜物」と私は定義しています。
セッション中に感じたことや気づきを大切に、それを生かしながらトライアンドエラーを重ね、血肉にしていくことでドミナとしてのSMセンスを培っていきたいと思っています。
SMに関してあなたが感銘した本、音楽、映画、アートなどはありますか?
SMに関しての感銘……とは少し違うかもしれませんが、自身の加虐性に気づいたきっかけは確実に「ヤクザ映画」ですね。往年の名作「セーラー服と機関銃」をはじめとし、最近では「すばらしき世界」「ヤクザと家族」「孤浪の血」はどれも良い作品でした。
仁義の世界に生きる精神も肉体も屈強な男たちが暴力によって傷ついたり、譲れない核のようなもの奪って壊そうとする攻防や、大切なものを天秤にかけた駆け引きが行われる卑劣で痛々しい拷問シーン……。どれも思い出すだけで胸が高鳴り口角が上がってしまいます。
守らなきゃいけないものがすでに壊されてしまったことを知ってしまった時に、保たれていた一本の糸がぷつん、と切れたように絶望した表情も大好きです。あぁ……強くて怖くてかっこいいのになんて可哀想で弱くて素敵なんだろう。
なにかひとつでも覚悟を持っている人間と対峙するのは、立ち向かうこちらも張り合いがあるというもの。そういう鋭い目線をねじ伏せることで私はきっと恍惚感に浸ってしまうのです。
こんなところでSMしたい!あなたの理想のダンジョンは?
理想のダンジョンはなんと言っても「トレーニングジム」ですね。ジムって良い空間ですよね。自分を追い込めた分だけ強くなれるというなんと素晴らしい場所! ここでは私が貴方専属のパーソナルトレーナーになりますよ。
トレーニング器具って良いですよね。確実にここを痛めつけたいという場所にピンポイントにアプローチできる。今回は下半身を攻めたトレーニングでもしましょうか。ダンベルスクワットはしっかりと膝をまげて……おっと、腰を落とし切れなかったら鞭でお仕置きですよ。限界まで追い込みましょうね。これが上手にできればお尻を使ったディルド騎乗位だって楽勝ですから。
有酸素運動もやりましょうね。足をこじかのようにガクガクさせてる貴方をそのままランニングマシンに連れていって走らせます。速度も傾斜のコントロールはすべて私が行いますのでご安心を。SMを楽しむには体力をつけるのは重要ですから。走り切ったあとのご褒美も決めなくちゃね。
せっかくのジムなら私の格闘技の練習にも付き合っていただきたいところ。実はムエタイを習っておりますので、技術向上のためにもぜひ貴方に蹴りのサンドバック役をやっていただきたいのです。どう? そんな大役、光栄でしょう。
こんな風に筋繊維をズタズタに壊して筋肉痛が1週間ぐらい取れないぐらいまで追い込んでいきたいですね。パーソナルトレーニングの素晴らしいところは、普段自分で決めている限界値を、他人の支配(本来はサポートですけど!)によって圧倒的に超えていくことを強いられ、回復すれば以前の自分を越えることができるということ。
さて、次はどこを鍛えていきましょうか?
あなたにとってハードプレイとはどういうプレイ?
■「ハード(hard)」の意味、多すぎる問題
難しい、大変な、苦しい、激しい、厳格な、熱心な、つらい、きつい……。「hard」という単語を辞書で引いたときに出てくる言葉たちです。
意味が多い単語、それがゆえに「ハードプレイ」という言葉から想起するものも人それぞれ。それで良いと思うのです。
だからこそ「あなたにとってハードプレイとは?」という面白い問いができる訳で、ドミナによって答えも様々。そして、私もこの問いに非常に頭を悩ませているひとりなのです。
■つかさ的「ハードプレイ」の2つの定義 結論から言うと、私の中の「ハードプレイ」とは下記2点を満たしていることと考えます。
①伴走者がいてはじめて超えれる限界であること
②ささやかな達成感があること
■ひとりで決めた限界なんてないに等しい
ひとつは「ハードプレイ」は「伴走者がいてはじめて超えれる限界であること」と考えます。自分ひとりで決めた限界なんてたかが知れている。大概の人は保身的で甘えが生じていますから。「今日は腹筋30回」とか思って26回でやめたりしてませんか? 一本鞭を受けれる数を低めに見積もってませんか? 別にそれでもいいんです。大体はそういうものですし、いつだって自分に厳しくはいられないですから。
だからこそ、ひとりでは味わえない感覚をふたりの空間で堪能することに価値があるのです。自分で決めた軽率な限界をぶっ壊す伴走者こそが、いま貴方の目の前にいるドミナなのですから。
もちろん、この限界とは定量的なものに限りません。極度の潔癖である方が聖水や黄金にチャレンジする際に生じる精神的な苦痛や、嫌いだと思っていたプレイに立ち向かう際の恐怖心や羞恥心にも限界はあるでしょう。それは誰かと比較するものではなく、個人に属する基準。「ハードプレイ」かどうかは貴方と向き合ったドミナとともに分かち合うものでもあると思うのです。
■ささやかな達成感とは「心の中の小さなガッツポーズ」である
もうひとつは「ささやかな達成感がある」ということ。
生活のなかで「今日はハードだったな」という言葉を使うシチュエーションをイメージしていただきたいのです。学生時代の部活動で厳しく扱かれた時、思いもよらない仕事の量に追われた時、ドミナとのプレイを終えた時。「ハードだったな」の言葉を想起した時、そこにはほんの少しの「達成感」があるのではないでしょうか? 単純に苦しくて、辛い、しんどいだけのことであればそれに応じた別の言葉が出てくるはず。
「ハード」の言葉を思い浮かべる時には、そこに多大な辛さや苦しさ、厳しさがあろうとも、例えばやったことのないことに戸惑いを感じていたかもしれない。普段はNGにするようなプレイに向き合ったかもしれない。感じたことのない痛みにキャパオーバーしたかもしれない。その時はもう嫌になる程だったかもしれない。
けれど、思い返した時「ハードだったなあ」という言葉とともにほんの少しの喜びと達成感が伴っている。そこに至るまでの過程を自分は乗り越えてやったぞ! という「小さなガッツポーズ」があるような気がするのです。それが私の考える「ハードプレイ」だと思うのです。
マゾに励ましの言葉/コロナ終息後に何をしたい?
2023年、イベントやお祭りごとが行われる際「4年ぶりの開催」などのキャッチコピーが付いたのを見ると、いよいよコロナも終息してきたなぁと思う今日この頃です。
思い返せば、かつてアンダーグラウンドな場所に居心地の良さを感じていたにも関わらず離れるのを余儀なくされたのは4年前。やはりコロナが原因でした。それでもこの場に戻ってきたのは好奇心が抑えきれなかったワケで、「コロナ終息後に何をしたい?」の問いに対する私の答えは「SMをしたい」だったのかなと考えます。
自宅に篭りパソコンと向き合いオンライン会議に明け暮れる日々......はもうご勘弁。目の前にいる人と同じ空気を吸って、時間を分かち合い、セッションをするのがとにかく楽しい。リアルな場でしか味わうことのできない熱気と感情の昂り、そして背徳を貪りたい私にとって今この環境にいることは「やっと戻ってきた!」と踊り出しそうなぐらいの歓喜と開放感の極みなのです。
ただ......喜びと同時に「もっと早くシオラの門を叩けば良かった」という薄ぼんやりとした後悔が時々ちくりと胸を刺すこともあります。飢えて渇いた心を潤すこの時間がどうして有限なのだろうと。とはいえ、過去の私にその道が開かれたとして今ほどまでには上手くいかないかもな〜とも思うのです。
きっと、今でよかった。この4年の空白が私に渇きを自覚させ、SMによる好奇心と探究心でしか満たせないと気づかせた。コロナが明けて、今この瞬間の「ラ・シオラ」のドミナとして立っていることが自分のやりたいことであり、最高に満たされる事なのだと思って止まないのです。
ドミナそれぞれのテーマ曲」は何?
椎名林檎の「長く短い祭り」です。
2015年リリース時からとても好きな曲なのですが、改めて聞き直すたびに、今の自分の心情と重なるようでえも言われぬ気持ちになります。
この曲に関して「ドミナではない私」のエピソードがひとつある。 私は会社員で、優秀で真面目で周りから信頼されている人間だ。そのことは自身がよく理解していたし、与えられた評価にもそれはよく表れていた。
ある時、大きなプロジェクトをひとりで動かさなきゃいけないことがあり、ローンチ前は連日会社に泊まって仕事をしていた。ようやく仕事がひと段落した時には深夜だった。 無事に終えた安堵感は束の間、唐突に「いけないこと」をしたくなった。
私はロッカーの奥に隠した焼酎のボトルを取り出し、昼に買った気の抜けた炭酸で割って、飲み干した。東京のシンボルタワーがよく見えるオフィスで、夜景を眺めてアルコールで脳を浸してただ踊った。スピーカーからは大音量で「長く短い祭り」が流れている。
-----
一寸 女盛りを如何しやう この侭ぢや まだ終われない
花盛り 色盛り 真盛り まだ
-----
大学を卒業して、大手企業に就職して、スキルを身に付け、昇進して、また働いて。でもいずれは結婚をして子供を産んだりするのだろうか。私はどんな選択をするのだろう。
まだまだ働きたい盛りなのに女性の身体のタイムリミットを背後に感じながら、がむしゃらに自己を高めなくてはという気持ちに急かされる。いつか選択を迫られ、なにかを諦めなくてはいけない日がくるのだろうか。年々焦りが募る。でもそんなことばかりに囚われたくはなかった。
このままじゃ終われないと、思った。 私は時々、社会で定義された「真っ当な人間」の枠組みを跨いで外に飛び出したくなる。見えない「なにか」へのささやかなる反逆心。道を踏み外しているのではない、自分のためにもうひとつのレールを敷いている。そこを歩く瞬間は背徳感と高揚感で満たされる。
オフィスでアルコールに浸りながら踊るように。そして、仕事終わりや週末にマゾと向き合いSMをするように。 こんな楽しい生活はいつまでできるだろうか。いつまでも続けていたい。そんなことを毎日考える。
私がドミナでいる時間は「長く短い祭り」なのです。
いつの時代、どこへ行って、どんなSMをしたいですか?
ここは未来のスーパーパラレルワールド。いま地球に住んでいるのは人間だけではない。
多国籍どころのさわぎではない。宇宙や異世界からやってきたさまざまな種族の生き物たちが平和に暮らしている。 さて、そんな世界で私はなにをするのかというとSMを楽しむのである。
蛸の足や蛇のようなぬるりとした触手を持った子や、二足歩行の屈強なボディを持った獣人の友達ができてSMに興味があるというから「じゃあダブルでもしようか〜」なんて言ったりして、2023年からマゾを呼びつける。
きっととんでもない光景に悲鳴をあげるだろうが、みんな気のいい子達だからすぐに仲良くなれると思う。 私は友人たちに指示をする。触手に手足を押さえつけられたり、局部を刺激されたり、締め付けられたり。獣人の極太性器をお尻に押し込まれたり。未来のスーパーテクノロジーでほぼ私の身体と一体化した男性器を喉奥までめちゃくちゃにしてやったりする。
鞭の革も想像したことのないような生物の素材のものだったりして、もう何が起こるのかどんなふうになるのかも分からない。痛いのか気持ちいのかも全部ぐちゃぐちゃ。混沌(カオス)だ。
想像できないアイテムやプレイで驚かせて、その反応を見てひたすらに笑いたい。 そして最後に「なんかよくわかんないけど凄い楽しかったです」というマゾ声が聞ければ私はこの上ない愉悦を感じるのです。
もう一度やり直したい。後悔したセッションやマゾとの関係はありますか?
「後悔」という言葉には自責・悔恨・悲しみというキーワードが孕んでいます。そのような感情を抱いた後悔のあるセッションがあったかというと、幸いにも今のところはありません。あるとするならば......「思い残し」でしょうか。
シオラのセッションが終わった後、必ずその日お会いしたマゾとのセッションを振り返っています。こんなことをした、そんな時のこんな表情がよかった。裏シオラには出せない、私だけの秘密のノートです。
そして、そのセッション記録の下部にかならず「次にやりたいこと」という見出しの元、メモを残しています。これを言うならば「思い残し」。思い返した時にふと気づく、やり残してしまったこと。もっとあれができてたかも。それも好きだったかも。もしかするとマゾ君やサブ君はこんなことも挑戦できたかもしれない。「もし次に会えたら」と書き溜めています。それだけひとつひとつに本気なんですよ。
もしかしたら次はないかもしれない、それでもいいと思っています。次何ヶ月も先かもしれない、何年後かもしれない、それで会えたら素晴らしいじゃないですか。私以外のドミナとセッションを重ねてパワーアップしてるかもしれない、それはそれで張り合いがあるってものですよ。
「次にやりたいこと」は愚直にこなさなきゃいけないTODOリストの役割ではないんです。ただ、私の思い残しの記録として、もし次会えた時になにかを噛み締めるための要因として、記してあるだけの私のエゴという名の真剣な愛なのです。
あなたがSMプレイしたい有名人は?また、どんなことをしたい?
書くことよりも、想像をするのに時間を要してしまったコラムです。風呂に入りながら、電車に乗りながら、ひたすら考えていたテーマですが書き出すまで3ヶ月かかりました。難産。他のドミナのみなさんのユーモア溢れる回答に思わず嫉妬しちゃうぐらいです。
さて、私がSMプレイしたい有名人は第153回芥川賞を受賞した某お笑い芸人です。時間の経過と共に丸くなってしまった彼自身と、彼の文章を、もう一度丸裸にしたいのです。
私自身「お笑い」というカルチャーをこよなく愛しています。時間にゆとりのある時は足繁く劇場に通っていました。数十人のキャパシティの中、閉ざされた空間で繰り広げられる掛け合いはどこか鋭利で、熱くて、その空気を一緒に吸えるあの場所が好きなのかもしれません。
さて、日の目を浴びたお笑い芸人達はTVの出演などが増え、良くも悪くも垢抜け、丸くなっていきます。先述した彼もそのひとりです。特に彼は、すっかり文化人・文筆家のような立ち位置の人間となった。彼が執筆した文章を長く読んできているが、若手の頃に劇場で連載していたフリーペーパーの文章が一番美しかった。鋭くて、生々しくて、愛に溢れていて。今は大衆に迎合しすぎている気がするんです。
SMの話をしましょう。私は彼とSMをしたい。彼が愛した文豪の愛した場所で、畳の香りを味わいながら顔を踏みつけ、痛めつけ、言葉で詰り、じわりじわりと時間をかけて責めていきたい。彼の恥ずかしいところもすべて丸裸にして、小さな種に水を撒いてその欲求を大きくしたい。己の知らない感情と感覚に気づかせたい。
そして、その過程をすべて文章として毎日綴らせるんです。
大衆ではなく、私にだけ向けられた言葉。誰にも配慮せず、生々しい欲求もすべて文字にして吐き出させる。それを彼の目の前でじっくりと読み込む。それを読みながらまたセッションを繰り返す。私が言葉を投げかける。往復書簡のようなSMをしたい。
ひとつの羞恥プレイになるのならば、その文章を「先生の新作です」と言って出版社に持っていくのもいいかもしれませんね。秘め事にしておくのも乙なものですけどね。
「殺し屋イチ」についてドミナが語る
ページを捲るたびに物語に飲み込まれていく。時にくくくと喉を鳴らし、時にニヤニヤと頬を緩め、時に痛々しい描写に眉を顰め、そして最後は声を上げて盛大に笑ったのです。『殺し屋1(イチ)』、新宿を舞台としたクレイジーでバイオレンスなアクション作品。最高でした。
さて。今回私が語りたいのはタイトルでもある主人公・イチ......ではなく、本作のもう一人の主人公とも言えるヤクザ「垣原」について。顔面に大きな傷と大量のピアス、ヤクザの若頭らしく知的で冷静な人間かと思いきや、話が進むにつれて彼の「マゾ性」が執拗に描かれていく。不気味で厄介でエゴイスティックでありながら、その倒錯っぷりと狂気により魅力が増していく愛すべきキャラクターなのです。
そんな " マゾヤクザ・垣原 " ですが、彼のセリフにはドミナである私のSM観/思想と合致し、思わず赤べこのように頭を縦に振りながら「わかるわかる」と頷いてしまう部分があるのです。思わず何度も読み返して考えた二つのフレーズを紹介したいと思います。
◾️◾️◾️
① 「痛み」をどう捉えるべきか
"「いいか、痛みを感じるんじゃない。痛みを考えるんだ。」"
"「痛みを制してんのは皮膚じゃねェ。頭だ。」"
作中序盤の拷問シーンより。相手の身体を吊るし、刺青が台無しになるぞと脅しながら尋問を繰り返し、その果てに背中に熱々の油をかける寸前に語りかける言葉です。シチュエーションはとんでもないですが、垣原のこのセリフはSMにおいてとても大事なことだな〜と思っていて、なにより自身のプレイにおいてもよくマゾに語りかける部分でもあります。
皮膚や肉や骨で痛みを「感じる」ことはひとつの前提でしかないと思っていて、「考える」さえも超えて、脳でたくさん咀嚼して「味わって」ほしいなぁと思うんですよね。この思想がゆえに私は意味だとか文脈だとか云々語っているワケなのですが、それを踏まえると垣原は「必然性(※ここについては後述)」のない相手にソレを説いて痛めつけるって、皮肉的で、SMではなくただの暴力であるからこそ拷問らしくて良いな〜〜〜! と思うシーンでもあるのです。
◾️◾️◾️
②SMにおける「必然性」の解釈
中〜後半で垣原が何度も発するのが「必然性」という言葉です。詳細を語るとネタバレになりそうなので控えますが、自分のSMのために必然性を追い求め、振り回され、荒れ狂う垣原のその姿を見ると「良いな〜!楽しんでるな〜!」とウキウキした気持ちになるんですよね......。
ここからは私の解釈ではありますが、SMにおける「必然性」って、「意味としては反する ” 偶然性 ” さえも内包した必然性」であると思うんです。作り込まれた筋書きや因果応報という意味ではない。理不尽すぎる状況も、傍若無人な振る舞いも、予測できないこともすべて引っくるめての必然。必然性があるからこそ先述の「痛みを考える」ことができると思うのです。
だからこそ思うのは「必然性」そのものより「必然性を追い求める」こと自体がSMを面白くするんじゃないかなと。その場にいるドミナとマゾの関係性もそうだし、周りの人間や環境さえも巻き込んで、その先を想像していく。ただ与えられたものを享受するだけじゃなく、能動的に構築していく。それを踏まえた上で「本当に想像もしていない偶然」が発生することが必然を超越した絶望であり幸福でありSMなんじゃないかな〜と。
◾️◾️◾️
暴力的でグロテスクな描写もある『殺し屋1(イチ)』ですが、だからこそ精神性を問う描写が際立ち、そこに性の倒錯エネルギーが爆発しているので脳が飲み込まれるような面白さがあるんだろうなあと思っています。そしてなにより、やっぱり私は理不尽で節操のない卑劣な暴力が飛び交い、無秩序に見えて謎ルールと正義が歪に蔓延るヤクザ達の世界を描いている作品を見るのが好きなんだな〜と再認識したのでした。