ラ・シオラの由来 ...
1997年。冬と春の狭間。水の都、ヴェネチアにて。
1997年2月、ヴェネチアの某ホテル。
冬なのに私は暑苦しさで目を覚ました。他のふたり、ドミナ「R」、奴隷「犬」は熟睡中。犬に窓を開けておくよう命じたのに忘れたみたい。窓を開けたら広がる闇。目が慣れたら群青に移ろい、教会のシルエット、運河、水の光が静寂の中で浮かんだ。
時計は午前2時。寝直そうとしたらノックの音。こんな時間に?とドアを開けたが誰もいない。こんなことを数回繰り返したので、犯人を捕まえようとはりこんだ。ノックと同時にドアを開け、赤い絨毯の続く長い廊下に飛び出ること数回。しかし、誰もいない。
すっかり目が冴えてしまった。犯人が隠れる場所などなかったのだから。
犬が汗をかいて呻き声をあげ始めた。同時にRが上体を起こした。
「Rちゃん、起きちゃったの?犬がうるさいね」
Rは返事もせず虚ろに座ったまま。再び寝てしまった。その時、部屋の空気が一変、暗くなった。壁の中から声がして、男女が壁から浮かび現れた。女性は扇を手に、裾の膨らんだドレス。男性は織柄素材の上着、同素材の帽子。笑顔で見つめ合い、軽快な足取りで反対側の壁の中へ消えた。優雅で恐怖はなかった。
ふたりが消えると空気が重くなった。次の来客は、白い仮面に真紅のマント。まるでカルナバルの絵葉書の中のような人。ゆっくり歩き、やはり反対側の壁に消えた。
その人が消えると微かな音がした。少しづつ大きな音になり、はっきりと聞き取れた。
「・・・ショーラ・・・シオラ、La Siora」
その言葉が気になってメモを取った。結局、一睡も出来ぬまま朝を迎えた。
この時、私はベネチアの友人「M」を訪ねて来ていた。朝、Mが観光案内の為に迎えに来たので、私はLa Sioraという言葉があるかを質問した。
「La Siora?どうしてそんな言葉知ってるの?辞書にないし、知っているイタリア人も少ないよ」。
その言葉が実在することに驚いたので、昨夜の体験を全部話すことにした。M曰く、ヴェネチアで不思議なエピソードは多いらしい。
「リエ、おめでとう!凄いね!ベネチアに認められたんだよ!本当の女王様」
「どうして?」
「ヴェネチアの昔の言葉で、敬いを込めて女性に呼びかける言葉なんだ。英語で言うとThe Mistressかな」。
プロデュースが決まったものの、良い名前が浮かばず旅に出た私は、その言葉を有難くいただいた。
ヴェネチアの古からの贈り物、時代を超えた言葉。
~ La Siora ~
ドミナ(女王様)のリレーコラム 第10弾
2023.12~
「殺し屋イチ」についてドミナが語る
今回はマンガ「殺し屋イチ」(作:山本英夫)の読後感想がテーマです。
主人公は元いじめられっ子の殺し屋・イチ。彼とは対極の存在、対決する運命のドM・垣原。壮絶な殺し合いが幕を開けます。気弱な青年イチは、心の内に強烈なドS性を秘めている。一方、命を狙われる事に悦びを覚えるドMヤ●ザ・垣原。宿命の二人が出会った時、何かが起きる!
バイオレンス、パワーゲーム、はたまたSMか ドミナの皆様はどんな風に受け止めたかな?
16th runner:トーカ - Tohka
マゾを上手に虐められる人間に悪いやつはいねぇが全員私がぶっ倒す
15th runner:琴子 - Kotoko
前提として、登場人物たちの行動原理の根底には承認欲求があります。
自分を見てほしい、話を聞いてほしい、他者から認められたい……誰もが抱く欲求です。 その事実を象徴するシーンが物語の終盤にあります。
ストーリー全体の支配者であるジジイが、自らの計画をコールセンターの相談員に意気揚々と語る場面です。 人間心理を巧みに操り他人を意のままに動かすことに成功したジジイですら、人知れず暗躍しているだけでは満足できず、他者からの承認という報酬を欲していたのです。
さて、誰もが自身に関心を向ける他者の眼差しを求める中、『ピアスのマー坊』こと垣原は例外でした。 彼が求めたのは共感力を持たないイチです。
イチは他者を認識しません。イチ自身と、歪んだ認知のフィルターを通して造形された人物のみが存在する、閉じた世界に生きています。 垣原はそんなイチの振るう純粋で圧倒的な暴力に聖性を見出し、恋焦がれました。 イチの目に自分が映ることはないと知っていながら、一方通行の愛を注いだのです。 信仰心にも似たそれは、最も正しく美しい愛の形と言えるでしょう。
しかしながら、垣原は最期の瞬間に、イチの視線を探して振り向くという悪手を打ってしまいます。 結果、彼は失意の中奈落の底へと落ちていきました。
──自業自得です。聖人に見返りなど求めるべきではないのですから。
14th runner:百華 - Momoca
イチが学生時代に虐められていたトラウマや負の感情が現実世界での暴力的な行動につながる様子は私がネガティブな感情を解消する際にも見られるものと似ていて、
イチが自分の世界に没頭すると暴力性が強まるのに対して一瞬で素に戻る様子も自分と重なる。
過去のトラウマや負の感情がいきなり表に出ることがセッション中にありますがそれを原動力として利用しプレイしていたりするのでそこでも彼との共通点を感じました。
何回読んでも思うのが、イチが羨ましいと思うこと。
ジジィのコントロール下で虐め加害者にされた現実世界の人間が暗殺されていくけど実際は虐めの加害者達は死んでいないし何ならそいつらは今でも呑気に生きているけれどイチの中では虐め加害者をたちを成敗した事になっているので最終巻のイチはトラウマを克服した事により清々しいほどに人が変わっている。
私もそうなりたいとイチへ憧れを抱いているのだと思う。だからこそ私はトラウマや過去の苦い記憶をセッションを通して克服しようともしているだと思います。
しかしながら、すべてを克服してイチのようになってしまったらつまらないとも思うのです。イチが虐めの加害者たちに再会した時、私自身がトラウマを克服出来てなんかいないと悟った時、何が起こるのだろうと舌舐めずりせずにはいられません。
誰かにコントロールされていいの?作りモノの世界で過ごして楽しいの?なんて勿論思いますが、私はコントロールされることへの嫌悪をあまり抱きません。
私をコントロールできる人間なんて限られていますけどね。
13th runner:京子 - Kyoko
人気の無い、周囲に助けを求められない状況で、不審者に遭遇してしまった場合の効果的な対処法をご存知だろうか。
答えは奇声を上げ、髪の毛を振り乱しながら裸足で駆け出す等の異常行動をとることだ。
理性の伴わない、言葉も通じない人間の異常な言動は、相手に恐怖心を抱かせる。得体のしれないものに関わりたくないという怯えや保身を生じさせる。
殺し屋1に出てくる拷問には合理性がない。相手の持つ情報を吐かせたいという本来の目的とは別の所で、責め手は己の理想と相撲をしている。これでは受け手は、何故自分が痛めつけられているのか、何のために耐えているのか、分からない。何故、相手がこんな行動をするのか、こんなことを言うのか、責め手の目的が意味不明で、為すすべがない。情報を吐いたところで状況が進展するかどうかも分からない(実際、吐いても意味がない)。この混乱した状況は、痛みに耐える集中力を奪う。
状況やルールの前提が分からなくなるという類の混乱的な恐怖自体は嫌いではない。だが読後の感想としては、私は話し合いができない人間や、自分が優位に立ちたいだけのお子ちゃまが嫌いだということだ。ハングリーでないエゴイストも見るに耐えない。私は彼らに共感など、しなかった。
1人1人、1つ1つのセリフについて切り出せば、もちろん考えさせられる。だが、主張ばかり強くて聞く(受け取る)姿勢が弱い彼らのスタンスに共感ができない。登場人物の各人が言いたいことを言いっ放しで、会話が会話に見えない。セッションどころかキャッチボールにも見えない。掛け算どころか足し算にもなってない。不出来なAI同士の会話を見ているようだった。(最早…キャラクターがリアリティのある人間には見えず、著者の傀儡にしか見えなくなった。)
ここまで人は人を無視して会話ができるのか?と頭が痛くなってしまったので言いたい。エゴイストなのは構わない。でも理想をただただ主張し、相手に押し付ける姿勢は怠惰だと思う。貪欲に貪欲に、理想をアップグレードしようと藻掻いてこそ、藻掻く過程で周囲からも相手からも情報を吸収しようとしてこそ、掲げた理想が輝くのではないのか。理想を愛すなら貪欲であれよ。自己完結してる場合じゃないんだよ。自己完結に至ってしまったなら、その絶望を見せてくれ。
コミュニケーションを全否定した上で自分の狂気をぶつけるのであれば、せめて相手の狂気をも我が物にする貪欲さを見せてほしかった。貪欲じゃないエゴイズムなんて気色悪いだけだ。その程度の狂気に興奮なんてできない。
相手がお前に如何に恐怖しようとも、お前の本質は髪の毛を振り乱して駆け出す不審者もどきとなにも変わらない。相手はお前を下に見ている。だからお前はずっと孤独なんだ。
12th runner:リリカ - Ririka
あまり漫画(特にアングラ物には!)に触れてきたことがなかったので、過激な表現たちドキドキしながら本作を読みました。自分は痛々しいことをするのに、その手の表現は得意ではないのです…!笑
本筋のシーンではないですが、私が1番共感したのはジジィ。
本作のストーリーの進行役の彼ですが、イチだけでなく、仲間達、あらゆる組や、新宿そのものを支配しようとする姿に共感を覚えました。
「人を支配することは、将棋の駒のようにはうまくいかない。」
そのことは理解していますが、私も心から支配を望んでいる瞬間があります。特にBDSMにおいては。
垣原のいう、支配の本質であるという「楽しいことがないから、ほかのやつらに楽しい事をさせて喜んでいるのが精一杯」との言葉。 本質的な部分もある気がしますが、なんだか違う気もする。
やはりジジィと同様に、この言葉を受けた後も私は支配と支配のその先に興味があります。それが悪きものとされようが、自分の手の中で作られた世界にワクワクが止まらないのです。だからBDSMが好き。
エピローグでも支配を続けたジジィのように私も世界を支配し続けたいですね。
11th runner:じゅん - Jun
「あれは正しくSMを言語化した漫画だよ。」
ということを何度も言われたが、私はあまり読む気にならなかった。 それは一体どうしてか?と言われれば…読んだら最後、その関係に憧れてしまうだろうということがわかっていたからだ。 生死を問われる状況になって、初めて人と関係を結ぶことが出来るなんて、あまりに魅力的ではないだろうか。
私が共感したのは、ヴィランである垣原の持つ被虐のスタンスである。
「痛みは感じるものではなく、考えるもの」だと言い切っているところも面白かった。 垣原が自らに痛みを与えようとする他者と対峙したとき、その相手を恐れるような素振りはまるでない。 むしろ、「恐れさせてくれ!」と懇願しているようである。
垣原の行動や言動に周囲の人間は恐怖し、狂っていると表現する場面が多々ある。 しかし、それも彼のスタンスを理解すればいくらか…理解することが出来る気がする。垣原の原理に則るなら、自らが痛みを与える側になるとき、対峙する相手に人格を見出してはいけないだろう。 そして、痛みに共感して手を緩めてはいけないだろう。
「痛みは考えるもの」という言葉には、大いに共感する部分がある。 純粋に痛みが好きだと言える嗜好もあるのだろうが、それにはきっと関係性など必要ない。 なんだったら相手も必要ないだろう。
純粋に痛みが好きで、より深い傷跡を望むだけの遊びは、ひとりで楽しむことができる類のものだ。 痛みに痛み以上の価値を感じる為には、必然性と関係性が必要になるのではないか。
必然性とは「その痛みを受ける理由・もしくは受けるに至る流れ」だろう。
関係性はこの必然性に力を与える大きな理由になる。 私たちの共通言語で言うなら、“彼女”に付けられた傷跡に意味があるのである。
これを理解してしまう時点で、私は垣原にとっての「イチ」になることはできないのかもしれないわね。笑
この物語の中で私が理解しにくいのは、主人公である「イチ」である。
イチを見ていて思うのは、なんのロジックも持たない純粋な暴力を行使するとき、幼さは重要な要素であるといえるだろう。 これを人は純粋無垢と表現するのかもしれない。
彼の特筆すべきもうひとつの特徴は、閉ざされた自分だけの世界から相手を見ているという点である。 ているといっても、相手を相手として認めている訳ではない。
自分の過去の記憶にある誰かを当てはめているので、むしろ相手の存在を根本的に否定しているとも言えると思う。 そして、相手と情緒的な関係性を築くことがないからこそ、その歪みに気がつくこともない。
そんなイチがあっけなく他者を殺していく様は心地よくもある。普段の生活で虐げられ、気味悪がられているイチが、必殺の蹴りで相手を淘汰していくシーンは、ヒーローショーのような感覚を抱く。 だからこそ気持ち悪くもあるのだ。
彼は殺した相手のことを振り返ることも、思い出して後悔することもない。 イチの見ている世界は、どこまでも続くヴァーチャルワールドのようなものなのだ。
ラストシーンでの垣原とイチの壮絶な追いかけっこでは、終始正体不明の爺さんが実況するという謎のシチュエーションになる。
その中で垣原のいう必然性が、実際は決定的に安全を脅かさない了解の元でしか成り立たない脆弱なものだということが露呈する。(と、私は汲んだ。)
この必然性にこだわった結果、ものすごい喜劇に変化したような気がする。 私はこの爺さんと呼ばれる人物にも底知れないものを感じるけれど、いちばんドミナに近い思考を持っているのではないかと思っている。
爺さんの本質は面白いものを求めて、自分自身すらも変化させることを厭わない部分だ。 ラストシーンの追いかけっこは、恐らく爺さんが思い浮かべた理想のシチュエーションだったはずだ。
垣原の言う必然性を丁寧に揃えていき、最終的に垣原のスタンスをイチの持つ絶対的な暴力によって全て薙ぎ払う…もしくは無意味なものだったと垣原に思い知らせる、とでも言ったらいいだろうか。
あまりにも情報量が多い作品だったので、上手くまとめられる自信がない。 さて、じゃあ私はこの作品を受けてどう感じた?というところで言えば…純粋に彼らに嫉妬した、が正直な感想である。
10th runner:蘆花 - Roca
今回は漫画「殺し屋イチ」の感想です。
この漫画の主人公はイチという青年。 そしてもう1人の主人公がヤクザの垣原。
垣原は顔面傷だらけで口は裂け、体中ピアスだらけの身体改造好きマゾヒスト。 見た目のインパクトもさることながら中身も読めば読むほどに愛くるしいキャラが際立ち、個人的には垣原が好き。
その中でも記憶に残ってるシーンは終盤にいよいよイチと垣原が対決することになるわけだが、垣原は楽しみすぎて服の下に自縛(自分で自分を縛る)亀甲縛りをしてるシーン。可愛い! この時もそうですが漫画を読み進めるにあたって何度も貴方達おマゾのことと重なり頭をよぎりました。
同じように自縛をして待っている子いたなぁ、とか。おマゾもセッションを楽しみにして自分で自分を更なる境地に追い詰める道具を用意してきたり、男性器にピアスの子、名前を刻まれてる子のことを思い出したりしましたよ。
共感シーン : 切断や殺害などヤるのは一瞬。でもそれをジワジワとやるのが醍醐味。私はこのような行為はしませんが執拗に責めるのが好き。特にチクビ責め。なのでジワジワ感に共感。それからやる時は徹底的にやるのが気持ち良いね!
なんといっても結末シーンに垣原の想いが詰まってた。責められれば責められるほど強くなっていく男。最早無敵に思える程の男が初めて絶望を味わい泣きながら逃げるシーン。
これは私なりの解釈で垣原は嬉しくて嬉しくて堪らなかったのだろうな。 命を繋ぎ止める最後の指1本、そして命さえ失うことも本望。
そう思わせてくれるイチ。2人の凸と凹がマッチした瞬間。垣原良かったね。というのが感想です。 時々セッション中にこのまま死ねたら本望とおマゾに言われることがあります。現実的には私とおマゾは命あってこそですからね。
9th runner:雲雀 - Hibari
個人的に殺し屋1は映画版派です。 浅野忠信がベストキャスティングすぎるからです。垣原の狂気さを出すのには相応しく思いますので。
しかしながら、ドミナになる以前に頭の中で思っていたことが、この作品の台詞によって目に見える思いとなってくれたことが嬉しく思いましたので、原作も大変良きものと存じます。
さて、こんにちは 雲雀です。今回のコラムは、昔コラム2でお話した『殺し屋1』についてなのでじっくり考えさせて頂きました。余談ですが、垣原みたいなマゾは苦手だとか書いてましたが、今は別に何とも思わないので、コラム2は是非書き直したいものです。
冒頭にお話したとおり、私の考えと垣原の思うSM観の一部にリンクするものがあります。 突然ですが皆さんは、本当の優しさとは一体どういうものととお考えですか?
見返りのない無償の愛?それはまるで聖母のようなものですね。その辺の女性に「好きな男性のタイプは?」と聞いて、えー?と小首をかしげながら『まーとりあえず優しい人ぉ?』と無難に返される答えに、「優しさ」が秘める腕から漏れ落ちそうな重みというのは存在しないように思えます。
本当の優しさ。もし私自身が誰かに与えるのならば、全部丸ごと等身大で受け止めて欲しく思います。 垣原も言っていました。「痛みを与える時は 痛みを与える喜びを噛み締めろ」 「それが相手に対して最高の思いやりだ」 と。 逆をいうなれば、プレイで相手に対して中途半端なものをかまそうものなら、それは「酷い」です。私はそう思う。 相手のキャパシティは知りませんが、責め手が受け手を見くびって勝手に尺度を決めつけてプレイが進行されるだなんて、きっと地獄みたいな時間だと想像してしまいます。
この作品に何度か出てくる「必然性」という言葉。あれは私からしたら鬩ぎ合いを指します。それをなくして行われるセッションに興奮も臨場感も覚えないのです。本当の優しさは、その形や道筋さえ2人が分かっていれば良いのです。
uあれはただのバイオレンスなんかじゃない。 いや、きっと外野から見たらバイオレンスと捉えられても仕方ないかもしれないけど、SMをしているフィールド内に生きる私からすれば、あれは生き方の話と捉えました。
7th runner:永遠 - Towa
お題が届いて頭を抱えた。 推薦図書のように置かれていたから夏頃一気読みしたのだけど、嫌悪感と頭痛が遺った程度で私には全くと言っていいほど刺さらなかった。 絵柄も好みじゃないし。
もはや細かい内容も忘却の彼方。 この作品から自分自身のあれこれや、BDSMや倒錯の話に発展させたいとは私は思えない。 また読もうとも思わない。
漫画でも活字でも映像でも舞台でも、作るには労力が要るのにつまらないと感じる作品に出くわすと、作者は途中で飽きたり萎えたり放り出したくなったりしなかったんだろうかと思う。 まあ、なにを面白く感じるかは人それぞれだからねえ。
作者は何がしたかったんだろう?何を伝えたかったんだろう? リレーコラムを書かなくてはいけないからと少しばかりこの作品に考えを巡らせてみて浮かぶのは、こんなことくらい。
最近、元も子もないことを言いがちな永遠〜Towa〜
6th runner:つかさ - Tsukasa
ページを捲るたびに物語に飲み込まれていく。時にくくくと喉を鳴らし、時にニヤニヤと頬を緩め、時に痛々しい描写に眉を顰め、そして最後は声を上げて盛大に笑ったのです。『殺し屋1(イチ)』、新宿を舞台としたクレイジーでバイオレンスなアクション作品。最高でした。
さて。今回私が語りたいのはタイトルでもある主人公・イチ......ではなく、本作のもう一人の主人公とも言えるヤクザ「垣原」について。顔面に大きな傷と大量のピアス、ヤクザの若頭らしく知的で冷静な人間かと思いきや、話が進むにつれて彼の「マゾ性」が執拗に描かれていく。不気味で厄介でエゴイスティックでありながら、その倒錯っぷりと狂気により魅力が増していく愛すべきキャラクターなのです。
そんな " マゾヤクザ・垣原 " ですが、彼のセリフにはドミナである私のSM観/思想と合致し、思わず赤べこのように頭を縦に振りながら「わかるわかる」と頷いてしまう部分があるのです。思わず何度も読み返して考えた二つのフレーズを紹介したいと思います。
◾️◾️◾️
① 「痛み」をどう捉えるべきか
"「いいか、痛みを感じるんじゃない。痛みを考えるんだ。」"
"「痛みを制してんのは皮膚じゃねェ。頭だ。」"
作中序盤の拷問シーンより。相手の身体を吊るし、刺青が台無しになるぞと脅しながら尋問を繰り返し、その果てに背中に熱々の油をかける寸前に語りかける言葉です。シチュエーションはとんでもないですが、垣原のこのセリフはSMにおいてとても大事なことだな〜と思っていて、なにより自身のプレイにおいてもよくマゾに語りかける部分でもあります。
皮膚や肉や骨で痛みを「感じる」ことはひとつの前提でしかないと思っていて、「考える」さえも超えて、脳でたくさん咀嚼して「味わって」ほしいなぁと思うんですよね。この思想がゆえに私は意味だとか文脈だとか云々語っているワケなのですが、それを踏まえると垣原は「必然性(※ここについては後述)」のない相手にソレを説いて痛めつけるって、皮肉的で、SMではなくただの暴力であるからこそ拷問らしくて良いな〜〜〜! と思うシーンでもあるのです。
◾️◾️◾️
②SMにおける「必然性」の解釈
中〜後半で垣原が何度も発するのが「必然性」という言葉です。詳細を語るとネタバレになりそうなので控えますが、自分のSMのために必然性を追い求め、振り回され、荒れ狂う垣原のその姿を見ると「良いな〜!楽しんでるな〜!」とウキウキした気持ちになるんですよね......。
ここからは私の解釈ではありますが、SMにおける「必然性」って、「意味としては反する ” 偶然性 ” さえも内包した必然性」であると思うんです。作り込まれた筋書きや因果応報という意味ではない。理不尽すぎる状況も、傍若無人な振る舞いも、予測できないこともすべて引っくるめての必然。必然性があるからこそ先述の「痛みを考える」ことができると思うのです。
だからこそ思うのは「必然性」そのものより「必然性を追い求める」こと自体がSMを面白くするんじゃないかなと。その場にいるドミナとマゾの関係性もそうだし、周りの人間や環境さえも巻き込んで、その先を想像していく。ただ与えられたものを享受するだけじゃなく、能動的に構築していく。それを踏まえた上で「本当に想像もしていない偶然」が発生することが必然を超越した絶望であり幸福でありSMなんじゃないかな〜と。
◾️◾️◾️
暴力的でグロテスクな描写もある『殺し屋1(イチ)』ですが、だからこそ精神性を問う描写が際立ち、そこに性の倒錯エネルギーが爆発しているので脳が飲み込まれるような面白さがあるんだろうなあと思っています。そしてなにより、やっぱり私は理不尽で節操のない卑劣な暴力が飛び交い、無秩序に見えて謎ルールと正義が歪に蔓延るヤクザ達の世界を描いている作品を見るのが好きなんだな〜と再認識したのでした。
5th runner:ルイ子 - Ruiko
殺し屋1のあるシーンが、強く記憶に残っている。
読んだのは、女王様を始めてすぐの頃だから、10年以上前でその1回だけだ。映画、漫画、小説、全てに於いてバイオレンスな表現が苦手なので、繰り返しは読んでいない、というか読めない。
…と言うと、意外に思うかもしれない。途中で脱落したり、気分が悪くなりながらもなんとか読み切った作品も多い。 読み終えたら残虐なシーンはなるべく思い返さないようにしている。
でも、殺し屋1のあるシーンだけは何度も思い返す。 イチがテレクラで謎の女と話すシーンだ。その女はマゾヒストで自分の興奮するシチュエーションを話している。
「足の先から身体を輪切りにされていって、心臓にさしかかった時の絶望感を想像すると興奮する。」
といった内容だったはずだ。
その時、これだ!と驚いた。 私と同じだ!と思ったのだ。同じ感覚を持っていて、それを適切に言語化してくれる人間がこの世にいるんだ、と嬉しくなった。 念のために伝えるが、私が輪切りにされたいわけではない。このシチュエーションが見事だと思ったのだ。
何度かblogやリレーコラムで書いているが幼少の頃、それが性的なものと知らないながらも、お気に入りだった想像がある。
電話ボックスに閉じ込められた女の人がおしっこを我慢できなくて漏らしてしまう、という想像だ。 その想像の中に「私」は存在していなかった。知らない、顔のない女の人。 我慢できないどうしよう、あと少し…ああダメだ、という絶望感が重要な部分なのだと今ならわかる。でも、私は絶望よりそこへ向かう過程の焦燥感に更に興奮するようだ。
SMプレイ中は、スイッチが入っているからか、冷静な外野が見るとあり得ない苦痛を当然のように与えているようだ。 でも、例えば自分が初めて与える苦痛に足を踏み出す時、強い抵抗が生まれる。自分自身の中に。
今、私が、この手をあと少し動かしたら、大変なことが起きる。 それを思い切って越える時、ものすごい快楽が走る。視界がキーンと赤く染まる。
バイオレンスな表現に強い抵抗のある私は、自分が能動的にそこに迫って越えていく過程で興奮する。 焦燥の先に行く時、その焦燥が強いほどに。
4th runner:理趣 - Riche
読了しました。長かった!そして、疲れた!その割にあっという間だった!
考えてみたら正味二週間とかの話ですものね。スピード感がすごい。十回くらい論考連載ができそうな作品ですが...リレーコラムにはカジュアルに、コンパクトにまとめられたらと思います。wiki見て気づいたのだけどこの作者の「ホムンクルス」読んだことがありました。あちらはよりスピリチュアルで、今回の作品は結構物質的、グロ描写を除けば王道バトル漫画のようなストーリーラインでもあり娯楽的な作品だと思います。
さて、読んでいて急に思い出したのですが、なんだか私やたら暴力を渇望していた時期があるのですよね。鞭やビンタといったSMの形式以前の、粗雑で原始的な暴力。だからといって日毎繁華街に繰り出して喧嘩に耽っていたわけではありません。
で、暴力そのものに憧れてるときって多分、自分が暴力振るうことと振るわれることに区別のないのですよね。加虐と被虐は本質的に同じこと。女の子の場合社会的な規範がありますからあるから自分を被虐側に置いたファンタジーに流れるのは当然の流れ。ですがこの漫画で被虐願望の方に意識を流したのは、ホモソーシャルなヤクザ社会のリーダーで、身体的にも立ち場的にも結構マッチョな男。
彼が加虐願望と被虐願望のどちら側に欲望の川を流すか、分けたポイントは何なのか。おそらくここに本作の本質的な部分があるのでしょう。
この根源的な暴力への欲求は、おそらく力への欲求でもあるだろうし...大きくまとめれば「向こう側」への欲求なんだろうなと思います。日常の向こう側、意識の向こう側、一般社会の向こう側。子供の頃って、世界は征服できる位どっかで思ってたりするじゃないですか。私だけ?
まぁ成長すれば段々と世界には自分の力でどうにもできない理不尽があると自然に無意識に学んでいくわけです。私の生育歴って普通では無く、精神的な発達が遅れたのかその「気づき」が段々じゃなく一気に来たのです。
この環境を脱すれば私はなんでも出来るんだ!と意気込んで自由になってみたけれど狭い支配下から努力して抜け出して生身で社会や他人と対峙したところで、世界に対してあまりにも歯が立たない。
そんな絶望が「向こう側」を希求するのだと思う。そして、一見力への希求とは思えない被虐願望だって、本質的には力への欲望だと思うのですよ。このへん自分が納得できるようにちゃんと筋立ててまた語りますね。
長くなりましたので、今回はこの辺にしておきますね。 あと、私もSで割とよく泣くタイプだと思います。
3rd runner:ミア - Mia
読み始めるとぐんぐん進むこのお話。
よく行く場所と相まって、知らないところでこんな事があるかもしれないというドキドキ感も味わえます。 個人的に好きな登場人物は垣原という男。
「愛がない故に美しい…美しさがない故に…愛がある!」
私はマゾたちを変態道を歩む同志のように感じているので、愛を以てSMをする事が好き。でも、彼の言葉で新しい道が開けた気がします。
愛が行動の制限になりうるのであれば、それさえもひととき放り投げて、相手に対する純粋な興味と加虐で向き合うのもまた、向き合い方のひとつだと。
愛がない事が愛だという垣原は私の世界観を縦に横にと広げてくれました。
とはいえリミッターを外したり、内なる壁や制限を壊すのは容易ではないと思います。人の行動は感情に左右されやすいし、無意識のうちに安全な場所に留まろうとするもの。だからこそSMで起こる、S性とM性のぶつかり合いや高まり合いは良い事ですよね。
互いに自身の新しい一面を知れて、命ある限りもっと先をと進み続けられる。 そう、命あればこそ。私の好きなキャラが物語で途中退場してしまう事が度々あるんですけど、現実ではそうならないでほしいなと思います。
私が見たいのはマゾのM的欲望で、希望を奪い取られ絶望に死んだとて、尽きぬ欲望のままに生き返るゾンビのようなマゾを何度も何度も何度もそれこそずっと楽しみたいんですから。
おマゾのみんなには無限の欲はそのままに、心と体は健康であって欲しいなとイチを読んで思いました。
2nd runner:ゆりな - Yurina
私が何故、今までSMを見ない様にしていたのか…以前ブログに『尊すぎて私には手を出せない』と書いたのですが、つい先日、更にひとつ思い出したことがあります。まずはそのお話から。
20歳のときに友達と初めてSMバーに行った際、女王様がその場にいたマゾ男性を指差して「試しにこの棒で彼のこと突ついてごらんよ」という流れになり、友達と順に突ついたことがありました。 SM用でもなんでもない、怪我をさせる心配もほぼ無いくらいの棒で。ツンツンツン…… なんと私はその途中で記憶を無くしてしまったのです。数秒だったのか数十秒だったのか分かりませんが記憶が無いのです。男性の「ちょ、ちょ、すみません、ストップ!」の声で我に返り、それと同時に恐ろしくなりました。
『私、ダメだ、わたしは絶対SMやっちゃダメだ。相手が望まない傷を、痛みを与えてしまう。』
有ろう事か興奮し過ぎて完全に我を忘れてしまったのです。(女王様に「貴女なかなかいい目をするわね」と言われたのできっと凄い表情をしていたのでしょう。) 20歳までSMに触れない様にしていたのにそれを解禁してみて1時間。またSMに触れてはいけないと自分に禁止令を出しました。
そりゃあそう。だって私、人を殺してみたくて仕方がなかったんだもん。 それが床に寝そべった男性が目の前に。私は椅子に座ったまま、彼を棒で突ついているだけ。そしたら、痛がるの。辛そうな、怖がる様な表情になるにつれて私の理性が何処かに行ってしまったのでしょうね。 今思うとその男性は痛みのせいではなく、私の表情や殺気やらに恐怖を覚えてストップを掛けたのだと思います。
で…あ、そうそう。 最近は人を殺してみたいって全然思わなくなったんですよ。 それもあって「ドミナになってみてもいいんじゃないか、SMクラブ、受けてみよう」そう思えたんです。
昔は人を殺したことがある人が羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。 『小学生の女の子が友達を殺した』『動機は"殺すとどうなるか知りたかった"』羨ましくて泣きました。私もこの子みたいにしていれば…。
さて、前置きが大変長くなりましたが、今回"『殺し屋1』を読んでみて、感想を書いてみて"と。
「何これ?ヤクザもの?こういう男性向けっぽいのはちょっとなぁ。」と読み進め…
途中で思いました。「もしかしてコレ読んだらまた人を殺してみたいとか思っちゃわない?!」
皆さん聞いてください!
それは大丈夫でした!!全っ然殺したい欲は出ませんでした。良かった。危うくまたSMに触れない期間に入るところでしたよ、ふぅ。 でも不思議なものですね。SMに触れなかったもう一つの理由をどこかで書けたらなと思っていたところに今回のリレーコラムのお題をいただいた。読んでみたら、あら大変。痛みを、死を感じさせる…というかモロにそんな内容の漫画。
では、何を感じたか?
まず、私、漫画を読むのが苦手なのですが凄い勢いで一気に読んでしまいました。 ドキドキハラハラ笑いありでテンポがいい。
そして性癖って不思議だなと思いました。私の性癖って多分幼稚園児の頃には芽生えていたんだけれど、園児ゆりなの場合は『泣かせる』ことに興奮していた。 男性の場合は射精をするっていうのが分かりやすくていいですね。それで射精できるか、できないかが自分の性癖に刺さっているのかどうかの1つの基準になっていそう。 独りでは射精できなくても、何かのきっかけ、誰かの言葉、誰かの行動で、思わず、射精できてしまったり。
ところで私の中で疑問が生まれました。性癖に関してもそれ以外でも、自分にストップを掛けることが出来るのが大人なのか、はたまた自分を解放することが出来るのが大人なのか…。どちらが"大人"なのですかね。 私はね、誰かの性癖を解放させてあげることができたら最高に幸せなことなのだろうなと思います。 貴方の最初のきっかけに、私の言葉で、私の行動で、思わず、射精してしまったり。 射精すること以上の喜びを知ってしまったり。
私は貴方たちに教えてもらいましたよ。人を殺すのではなく、生かしたまま弄ぶことの楽しさを。
1st runner:クロエ - Chloe
私が年齢一桁だった頃。 兄の部屋にタバコが染みた漫画雑誌が積み上げられているのに目をつけており、 兄と違い一切の娯楽を禁じられていた私は漫画というもの読みたさに、 忍び込んで盗み見ては飛んで自室に戻ると言うことを繰り返しておりました。
当時はそれが何を意味するのかがわからないまま、オムニバスのようなこの裸の男女の絵本をめくり、 中でも鳩尾を抉るような不快感と妙な興奮を呼び起こす話が、毎回ひとつだけあったことが焼き付いていた。 ただ、名前がわからない。
なにせ、ほどなくして母にバレ、
「お前えっちな漫画読んでたな!!!そこに正座しなさい!!いい?いやらしい人は地獄に落ちるのよ。 ……お前の父親のようにな!!」
と、いつもの演説が始まり、ひとしきり拝聴したのち雑誌は忽然と姿を消し、以来見かけることはなかったですから。
ゆえに戦慄しました。
※必読と描き殴られた紙袋にぎっしり詰まったこの漫画を読み進め、 あの日あの時の絵柄、記憶と少しズレたセリフ、あのシーンにまた巡り逢ったのです。
それがこの、『殺し屋1』です。
あれは今ここに居るわたくしに繋がる示唆だったのでしょうか。
名前の音読みで“少年A”のような響きとなる残酷な弱者、イチ。
先天的なのか後天的なのか、両方か。
同情を通り越して呆れるほど一般常識から感情から何からが欠落している。 原始的な幼さと、脳にリソースを割かない分の圧倒的パワー。 正当性を握りしめさせられた時に躊躇がなくなる者に対して私は弱者と呼びます。
背景を知る由もなく、このまだ見ぬ怪物に心を躍らせるは、M男性代表、ヤクザ垣原。この見覚えのある粘り強さよ…。
求める刺激と、日常では真逆の立ち位置である彼ら。
力関係を求めるいじめっ子。みんなと仲良くしたいいじめられっ子。 欲望をベースに、野性の嗅覚という脊髄反射で産まれる政治。 その上で行われる心理戦頭脳戦…
とは言ってみたものの所詮、一般的な学園生活に毛が生えたのを通り越し、毛皮で覆われたいわゆる畜生道である。 イチを深く傷つけたあの日々の延長線。
あやかるべきか悩ましくも、この方々、地に足がつきすぎるほどついていることも確か。
これからの人生での大切な鍵がありそうで探すのだが、弩級にアウトな変態達の濃厚さに嗅覚をやられて作業は難航。 人類学というくくりで読み進めるも、この垣原という男の発言を聞く度セッションの振り返りを余儀なくされる始末。
ただひとつ思ったことは。
何を愛とするか。それぞれのいびつさで、滅多に見つからないピースがハマると命が消し飛ぶほどの威力があるのですね。 ある刺激で、酔う。ある刺激で、我に返る。それを愉しむ。 己の限界をひたむきに、真摯にさぐる。 その一途さ。
貴方がたに会いたくなる作品。
それなりの決心を持って、もう一度、またもう一度こっそりと読むでしょう。 あの頃のわたくしのように。
ドミナ・インタビュー
第1弾 真珠女王様
唯一のエクセレント・ドミナである真珠女王様へのインタビューが行われました
どうしてSMに興味を持ったのか、どんなSM遍歴を辿ってきたのか、これからの抱負や、ラ・シオラに対して思うこと、などなどをインタビューしていきます。
2019年で在籍17年目、もはやラ・シオラのイメージとも不可分な真珠女王様。SMとの出会い、M男性との向き合い方、17年の軌跡を振り返って思うこと、これからの抱負など、プロデューサーのRie ASAGIRI、自身もラ・シオラでのドミナ経験のあるインタビュアー・早川舞との鼎談形式で行われました。
1)「しもべは何人いらっしゃいますか」
2)長期的な目線で、M男性に何を与えていけるか
3)相手を見て、相手に合わせたスキルを磨く
4)17年の女王様経験の中で節目になった時期 17年続けられた理由は?
5)心でつながっているから「会えるのがご褒美」
6)SMをしてみたい女性へ
「しもべは何人いらっしゃいますか」
早川舞(以下:早川)真珠さん、お久しぶりです。私がラ・シオラに在籍していたのは10年近く前になりますが、そのときとお変わりなくお美しい。それどころか、貫禄や存在感が増していらっしゃいますね。そのお美しさを保つ秘訣は何ですか。
つづきは【Domina Interview】ページへ
note - LA SIORA Tokyo
note はじめました。
Rie ASAGIRIのブログ先行配信、ブログ記事、過去の未公開記事など。
Jun.2021
邦タイトル 「慎みたまえ、口」 英タイトル 「Keep your mouth shut, my dear」 こちらから御覧いただけます。
コロナ禍のBDSM愛好家を表現した、Lily Rinae監督の短編映画。スペインでは賞も獲得、世界中で配信され、話題となりました。私もほんの少しですが関わらせていただいたので、嬉しくて仕方ありません。
Lily Rinae監督は顕在意識も顕在意識も露にするパワーがある。今後も現実に、妄想に、その狭間に、アンダーグランドに迫ってゆく作品を楽しみにしています。 この映画を撮影する前、彼女はあの太陽の国である作品を撮りました。
コロナ禍中のBDSMの世界が色がないとすれば、太陽と砂と青とあらゆる極彩色に溢れるその作品は対極です。どちらも開放と自由、心地よさに向かっているのは共通していますが。 舞台はスペインのイビサ島。パーティアイランドで有名ですが、この映画の舞台は巨大な箱ではなく、あるビーチのDJのお話。
随分前、全てを捨ててどこかで生きようと決断したことがあります。私が選んだのはスペインでした。この時は決断しただけで変わらぬ生活となりましたが。 あれから何年もの時は過ぎ、世界のどこにパラダイスがあるの?もし最終地を選ぶとしたら?という話題になり、私は2つの場所をあげました。
偶然にも片方はスペインでした。 太陽と影は共存しています。 制約の多いこのご時世、あなたが少しでも閉塞感を感じているなら、映像の中でもあの島へ旅しよう。 2021年7月24日(土)より公開です。 公式サイト「太陽と躍らせて」